知らないとただの参道。実態は「大人の観光地」

生駒新地

生駒新地は宝山寺の参道にお茶屋(料理屋・旅館)が栄えていった
門前街です。
ここで「生駒新地」の歴史を紐解いて見ましょう。
参考文献「生駒市誌 資料編U」(発行:生駒市役所 昭和49年5月1日)

宝山寺

宝山寺は奈良県、生駒山(642M)の山腹にあるお寺です。秘仏の
歓喜天は「聖天さん」と呼ばれています。商売繁盛、勝利開運、家
内安全、災厄魔除として昔から参詣者が絶えないということです。
1日と16日には縁日が出ます。


宝山寺の主な行事
1月1日〜3日

宝山寺初聖天(はつしょうてん) 

2月 3日 生駒聖天厄除星祭大護摩(しょうてんやくよけおおごま)
4月 1日 宝山寺大護摩会式(おおごまえしき)
5月 1日〜10日 宝山寺大般若会式(だいはんにゃえしき)
7月28日 阿遮羅講夏季不動護摩供(あしゃらこうかきふどうごまく)
9月23日 生駒聖天お彼岸万燈会(いこましょうてんおひがんまんとうえ)
11月 2日 宝山寺仏名会(ぶつみょうえ)
11月25日 宝山寺般若窟柴燈護摩供(はんにゃくつさいとうごまく)
12月 1日 生駒聖天厄除大根炊き(しょうてんやくよけだいこんだき)
12月16日 宝山寺大注連縄奉納(おおしめなわほうのう
生駒新地

生駒新地は1914年(大正4年)頃から、宝山寺で開業されました。
●芸妓をかかえる置屋
●お客の遊ぶお茶屋(料理屋・旅館)
●これらの業者の事務所である検番
の三つが主な要素になっています。これは今も基本的に変わって
いません。
開設からの年表を作りました

出来事 世の中の動き
大正3年
(1914)
大軌鉄道(現 近鉄)大阪〜奈良間開通。 生駒停留所が設けられ、駅より宝山寺の新しい参道(1.4km)が開設。料理屋が増える。 ドイツに宣戦布告
大正4年
(1915)
大阪南地花街、井上市太郎氏が巴席という置屋をおいて芸妓をかかえて営業。 対華二十一箇条要求
大正7年
(1918)
生駒鋼索鉄道(現 近鉄)により、わが国最初のケーブルカーが、鳥居前〜宝山寺間開通。宝山寺への参詣者も激増。
置屋 はましげ開設。芸妓の数は30名位。大阪や河内から多く商人や職人が生駒新地に訪れる。
シベリア出兵宣言
大正10年
(1921)
劇場「生駒座」が落成。(芸子や舞妓の舞踊会を開く場所。後に、芝居、映画の劇場と形が変わり、昭和10年閉鎖。)
置屋数15、芸妓数130名位に増加。料理屋は49軒。
日英米仏4国条約調印
大正14年
(1925)
登山自動車道が開通。 日ソ基本条約調印
大正15年
(1926)
ケーブルカー複線化
昭和4年
(1929)
生駒山頂に遊園地を開設。宝山寺〜生駒山上間のケーブルカーも開設。

世界恐慌がおこる

昭和5年
(1930)
ダンスホール「生駒舞踏場」が開設。ダンサーも100人を超える。(太平洋戦争が始まるころ閉鎖)
昭和8年
(1933)
このころの参詣者は年間200万人位。正月は1日30万人位。料理屋は100余りの数。 国際連盟脱退
昭和18年
(1943)
戦時下体制で、置屋、検番は解散。料理屋は旅館のみ営業。疎開者も受入れる。 朝鮮に徴兵令施行
昭和20年
(1945)
終戦
昭和22年
(1947)
「料理旅館組合」が発足。 日本国憲法施行
昭和23年
(1948)
「芸妓あっせん所」開設。
昭和29年
(1954)
お茶屋は戦後の生活環境の変化で、営業方式を旅館の方へ力を注ぐ。60軒に減少。 映画「ゴジラ」「七人の侍」製作。
昭和31年
(1956)
売春防止法施行
昭和47年
(1973)
藤圭子が宝山寺をテーマにした歌謡曲、「女町エレジー」を発表。
昭和48年
(1974)
旅館数は47軒。アルサロやキャバレーの増加で、芸子数は150人位に。異動が激しくなる。 オイルショック
現在(2006年) 旅館数は13軒。芸子数は30名位(?)
宝山寺の衰退

ここが栄えたのは、もともと商売繁盛のため大阪や河内方面から商売人が参詣
に訪れていたからです。やがて大正3年、「宝山寺」の下に電車が開通し、観光
としても日本初のケーブルカーも大正7年に開通。それに加え、大正の終わりか
ら昭和の初めころは商人も景気がよく、参詣者が多く訪れたということです。
人通りが多くなれば参道に「商売」を考える人が登場し、料理屋やらお茶屋が増
え、整備されていきました。
その頃の商人の若旦那さんなんかが「ちょっと宝山寺にお参りにいってきまっさ」
と言えば「信心深い人」と逆に家人から思われたのではないでしょうか。参詣が
終わると「御茶屋」で一杯ひっかけながら芸妓と遊んで帰る。(上方落語にもよく
似た話がある)公明正大な言い訳ができるので、余計賑わったのではないでしょ
うか。

しかし、時代も昭和20年代後半になると生活習慣も代わり、他にも遊びが増え「
お座敷」遊びじたいも流行らなくなりました。
ここが衰退していったのは、手軽なアルサロや近くのキャバレー、新たな風俗業が増え、そちらに客が流れていき、又「売春防止法」も拍車をかけたのが原因なのでしょう。

時代の流れにはどうしても勝てませんが、昔からの風情が残って、いいところもあるので、私はここ「宝山寺」がいつまでも頑張ってほしいと願ってます。


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